言葉の書き溜め

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希望的観測

 岩波文庫の「ギリシアローマ神話」を読み始めて暫く経ったが、あまりに面白すぎて一向に読み進めることができない。

 本屋にふらっと立ち寄ってなんとなく手に取って買った一冊だったが、これは正解だった。

 まず序文を書いているのが、あの漱石先生だったのだ。

 僕は本を買う時はなるべく中身を見ないで買うようにしている為、これは嬉しい誤算だった。

 どうやら漱石先生もギリシャ神話に興味を持って読もうと試みたが、様々な理由で断念してしまい、それを自身が教師をしていた時を含めて恥じていたようだ。

 それは漱石先生の居た頃には読みやすい本などは存在しておらず、おそらくは原文で漠然とした詩や断片的なストーリが散在しているような感じだったのだろう。

 (専門家ではないので憶測でしかないけれど)

 漱石先生の書いた序文を読んで、読みやすい本がたくさん出版されている現代に生きる僕らは、せっかくの先人たちの苦労を享受しなくては勿体ないと気を引き締めてこの一冊を読んでいこうと決めた。

 第二章のプロメテウスとパンドラについて書かれていた箇所で気になった部分があった。

 それはパンドラがエピメテウスの家にあった瓶の蓋を開けたことによって、この世にありとあらゆる災いが溢れたという、俗にいう「パンドラの箱」の一節だ。

 これまで箱だと思っていたものが瓶だったのにも驚いたが、もっと僕の興味を引いたのがこの話にで記述されていた「希望」の描写にある。

 ギリシャ神話は大筋が同じでも、細かい箇所で解釈が異なるものが多くある。

 例えばこのパンドラの一連の内容も、「希望」の描写と解釈が違うだけで随分と変わって見える。

 一節では瓶の中には痛風疝痛といった肉体的な災いと、嫉妬や怨恨といった精神的な災いが全て飛び出し、最後に残ったのは「希望」だけで、だからこそ今日を我々がどんな困難に直面しても「希望」は我々を見捨てないという内容となっている。

 これとは異なったものでは、パンドラは神々から賜ったものをその瓶にしまっていたが、うっかりその蓋を開けてしまって中にあった祝物が全て逃げ去ってしまい、最後に残っていたのが「希望」であったとするものであった。

 著者の野上弥生子は、後者の話の方が尤もらしいと考えていた。

 あらゆる災いに満ち溢れた瓶の中に、宝石のごとく貴重な「希望」が保管されているのはちょっと考えられないとのことだ。

 確かに、そう考えるのは至極当然だ。

 僕も最初に読んだ時は納得したが、少し考えると前者の話も考えられなくもないと思った。

 僕はこの「希望」が、僕の友達を殺したのを知っている。

 でもそれは「希望だったもの」であって、友達が生きているまでは確かに彼を勇気づけて、彼の生きる活力となっていたのは確かだ。

 これだけがあれば生きていけるというのは、これがなければ生きていけないという言葉の裏返しにも聞こえる。

 かけがえのないものというのは、欠けることも替えることも許されないのだ。

 「希望」が瓶の一番奥底にあったのは、それが他のどんな災いよりも最も恐ろしい災いであったからなのかもしれない。

 しかもひねくれ者の僕は、他の災いはその場から逃げ出したのに、希望だけが残ったという一文がとても恐ろしい意味にも読めてしまう。

 その最も恐ろしい災いは、我々の元を片時も離れることは無く、その輝きを目印にして、逃げ出した災いたちは時折僕たちの隠れる場所を見つけ出しては僕らを傷つけて、辱める。

 そんな恐ろしいものだったら、あらゆる災いの奥底に押し込められて、他の災いと違い我々の元を去らなかったことにも納得がいく。

 願わくはこの「希望」が神々から僕たちに送られた最も崇高な祝物の一つであることを。

 

 とかなんとか考えてばかりいるので、一向に読書が進まない。

 他の人にもこの解釈を聞いてみたいとふと思ったので、個人的に日記に書いた文書をわざわざここで書き写してみた。

 兎も角、先人たちの創作物は本当に偉大だ。