言葉の書き溜め

色々な事を整理する為のブログです。

雨にも負ける

 雨にも負ける

 風にも負ける

 雪にも夏の暑さにも負ける

 貧弱な体をもち

 強欲で 

 常に憤り

 いつも卑屈に笑みを浮かべる

 一日に白米を茶碗一杯

 三色ふりかけとインスタントみそ汁を食べる

 あらゆることで

 己しか勘定に入れずに

 何度も見聞きして、わかったつもり

 そして忘れる

 

 東に病気の子供あれば さてはコロナかと勘繰り

 西に疲れた母あれば 飯はまだかと催促する

 南に死にそうな人あれば カメラ片手に動画撮影

 北に喧嘩や訴訟があれば もっとやれと唆す

 

 厳暑の時は外に出ず

 厳冬の時も外に出ず

 皆にデクノボーと呼ばれ

 誉められもせず苦にもされず

 そういう者に

 なりたくはないものだ

 

 

プレイリストを作る

 月の始まりにその月の名前が曲名に入っている曲を聴くという謎の遊びを高校生の時からやっていた。 

 このことを友人に話すと怪訝な顔をされたが、簡単に言えばクリスマスにクリスマスソングを聴く、バレンタインにPerfumeのチョコレート・ディスコや国生さゆりバレンタイン・キッスを聴くことの延長線にあるものだと思ってもらいたい。

 あまり理解されないが、やったことがある人は少なくないと信じたい。

 昨今のサブスクリプションによって、様々な作品を発見したり、まとめることが容易になった。

 音楽はその中でも特に影響を受けているものと言える。

 賛否両論あれど、プレイリスト作成に関してはとても使いやすくなった。

 音楽を雑食的に聴く僕は、何十個もプレイリストを作成する。

 古のウォークマンを使っていた身からすれば、いちいち慣れないウォークマンのサイトを通じてパソコンにディスクを挿入、取り込み、ウォークマンに移すといった過程を行うことなくダウンロードすれば聴けるのは革命的だった。

 Apple Musicでは自分が作成したプレイリストを好きに再生でき、誰かが作って公開したプレイリストまで聴けるようになった。

 色んな人が作ったプレイリストの中には面白いコンセプトのものがあったりもする。

 そこで僕も月の初めに聴いたりするプレイリストを一つ公開しようと思う。

 本当は月毎に数曲入っているプレイリストが12個存在するが、今回はそこから一曲ずつ抜粋して、邦楽に絞って作ってみた。

 よかったら試しに聴いてみて欲しい。

 いい曲、揃ってます。

 

https://music.apple.com/jp/playlist/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%9B/pl.u-ZmblVYpi0ebXLYY

 

希望的観測

 岩波文庫の「ギリシアローマ神話」を読み始めて暫く経ったが、あまりに面白すぎて一向に読み進めることができない。

 本屋にふらっと立ち寄ってなんとなく手に取って買った一冊だったが、これは正解だった。

 まず序文を書いているのが、あの漱石先生だったのだ。

 僕は本を買う時はなるべく中身を見ないで買うようにしている為、これは嬉しい誤算だった。

 どうやら漱石先生もギリシャ神話に興味を持って読もうと試みたが、様々な理由で断念してしまい、それを自身が教師をしていた時を含めて恥じていたようだ。

 それは漱石先生の居た頃には読みやすい本などは存在しておらず、おそらくは原文で漠然とした詩や断片的なストーリが散在しているような感じだったのだろう。

 (専門家ではないので憶測でしかないけれど)

 漱石先生の書いた序文を読んで、読みやすい本がたくさん出版されている現代に生きる僕らは、せっかくの先人たちの苦労を享受しなくては勿体ないと気を引き締めてこの一冊を読んでいこうと決めた。

 第二章のプロメテウスとパンドラについて書かれていた箇所で気になった部分があった。

 それはパンドラがエピメテウスの家にあった瓶の蓋を開けたことによって、この世にありとあらゆる災いが溢れたという、俗にいう「パンドラの箱」の一節だ。

 これまで箱だと思っていたものが瓶だったのにも驚いたが、もっと僕の興味を引いたのがこの話にで記述されていた「希望」の描写にある。

 ギリシャ神話は大筋が同じでも、細かい箇所で解釈が異なるものが多くある。

 例えばこのパンドラの一連の内容も、「希望」の描写と解釈が違うだけで随分と変わって見える。

 一節では瓶の中には痛風疝痛といった肉体的な災いと、嫉妬や怨恨といった精神的な災いが全て飛び出し、最後に残ったのは「希望」だけで、だからこそ今日を我々がどんな困難に直面しても「希望」は我々を見捨てないという内容となっている。

 これとは異なったものでは、パンドラは神々から賜ったものをその瓶にしまっていたが、うっかりその蓋を開けてしまって中にあった祝物が全て逃げ去ってしまい、最後に残っていたのが「希望」であったとするものであった。

 著者の野上弥生子は、後者の話の方が尤もらしいと考えていた。

 あらゆる災いに満ち溢れた瓶の中に、宝石のごとく貴重な「希望」が保管されているのはちょっと考えられないとのことだ。

 確かに、そう考えるのは至極当然だ。

 僕も最初に読んだ時は納得したが、少し考えると前者の話も考えられなくもないと思った。

 僕はこの「希望」が、僕の友達を殺したのを知っている。

 でもそれは「希望だったもの」であって、友達が生きているまでは確かに彼を勇気づけて、彼の生きる活力となっていたのは確かだ。

 これだけがあれば生きていけるというのは、これがなければ生きていけないという言葉の裏返しにも聞こえる。

 かけがえのないものというのは、欠けることも替えることも許されないのだ。

 「希望」が瓶の一番奥底にあったのは、それが他のどんな災いよりも最も恐ろしい災いであったからなのかもしれない。

 しかもひねくれ者の僕は、他の災いはその場から逃げ出したのに、希望だけが残ったという一文がとても恐ろしい意味にも読めてしまう。

 その最も恐ろしい災いは、我々の元を片時も離れることは無く、その輝きを目印にして、逃げ出した災いたちは時折僕たちの隠れる場所を見つけ出しては僕らを傷つけて、辱める。

 そんな恐ろしいものだったら、あらゆる災いの奥底に押し込められて、他の災いと違い我々の元を去らなかったことにも納得がいく。

 願わくはこの「希望」が神々から僕たちに送られた最も崇高な祝物の一つであることを。

 

 とかなんとか考えてばかりいるので、一向に読書が進まない。

 他の人にもこの解釈を聞いてみたいとふと思ったので、個人的に日記に書いた文書をわざわざここで書き写してみた。

 兎も角、先人たちの創作物は本当に偉大だ。

 

 

 

 

原稿用紙と万年筆

 何か文章を書くとき、僕はよく紙の原稿用紙を用意して、愛用している万年筆を使っている。

 これまでは文章を書くこと自体が好きなだけで、それ以上のことを求めていなかった。

 だから原稿用紙に散文を書いては捨てるを繰り返していた。

 たまにこの話を誰かが読んだらどんな感想を持つか気になるものが生れ、それはネットで細々と挙げている程度だった。

 最近はそんな心情にも変化が起きている。

 僕は少し前から先生と親友から言われたある言葉とずっと向き合ってきた。

 

 「君は他人に理解されることを諦めた方がいい。ただ、理解してもらう努力はしなければならない」

 

 この言葉が二人から出たのには様々な理由があるが、端的に言えば僕が殻に閉じこもりすぎたことに対するお叱りだった。

 自己完結ばかりしていたら、心の扉が錆びついてしまい、名探偵コナンのCM時に開閉されるドアの如く建付けが悪くなってしまった。

 自己完結が悪いという訳では決してない。

 大切な個性であって、重要な防御策でもある。

 ただ僕自身がそればかりをやってしまった結果、他人に自分を分かってもらう事を極端に避けるようになってしまっていた。

 これは自分を他の誰かに開示するという行為のリハビリとも言える。

 使わなければ壊れるのはモノも人も同じだと思う。

 万年筆は特にその傾向がある。

 全く使わずにインクが渇けば固まってしまい、ダメになってしまう。

 水洗いなどのメンテナンスは勿論、使い続けるというのも立派なメンテナンスの一つだと言える。

 僕も万年筆と同じで、自分を開示することで色々なものが固まってダメになってしまう前に、なるべく使っていくことにした。

 ただ自己を開示する危険性も忘れてはいないので、インク切れを起こさない程度にやっていきたい。

 これまでよりは更新することになりそうなので、Twitterが少し騒がしくなるかもしれません。

 

 

 

 

ウーパールーパー、育てただけなのに・・・・・・

 突然ですが皆さん、「テセウスの船」という思考実験をご存じでしょうか?

 簡単に内容を説明しますと、ある船を修理する為に全ての部品を新しいものに置き換えた時、それは以前の船と同一であるかそうでないかを考えるような問題です。

 これをもっとかみ砕いて紹介するならば「どこでもドア」問題とした方が想像しやすいかも知れません。 

 某人気青たぬ……猫アニメで登場する道具で、行きたいと思った場所に瞬時に移動することのできる魔法のようなドアが「どこでもドア」と言われています。

 この「どこでもドア」はあくまでも科学の力を用いた道具とされているので、その仕組みはドアを潜った人間を分子レベルで分解して、それをコピーしたものが転送され、元の身体はそのまま消滅すると考えられています。

 もちろんこれは都市伝説的な類の話です。科学的根拠が本当にあるかまでは素人の僕にはわかりませんが、今回の趣旨としてはもってこいなので紹介しました。

 どこでもドアでも、先の話と同様な問題が考えられる訳です。

 ドアを潜る前と潜った後の人は、分子レベルで全く同じ構造をした二人です。

 これは同一人物なのか、どちらかが”本物”でどちらかが”偽物”なのでしょうか。

 

 なぜこんなことを考えているのかというと、僕自身が少し前にこの問題に直面したからです。

 僕には大切な家族がスマホの中に一匹居ます。

 友達のおすすめで育て始めたウーパールーパーのグレース(名前)です。

 グレースは画面いっぱいに大きく育って、そろそろ水槽の替え時(サイズを元に戻す機能)かな、なんて考えていた頃でした。

 スマホをそろそろ買い替えた方がいいと姉の助言を受け、僕はスマホを新機種に変えました。

 勿論、前のスマホのデータをしっかりと移行しました。

 それでもアプリは手動でデータ引き継ぎが必要だったので、その作業をしていた時、想像もしなかった恐ろしい出来事が起きたのです。

 僕の目の前には、二匹のグレースが気持ちよさそうに水槽の中を泳いでいました。

 勘の鋭い方ならもうお分かりになるでしょう。

 テセウスの船です。

 どこでもドアです。

 二匹を同時に育てるのは現実的ではありません。

 僕は、この問題の答えを出さなければいけませんでした。

 どっちがグレースだ。

 どっちもグレースか?

 いっそ両方を育てるか、あるいは・・・・・・。

 僕はただ、ウーパールーパーを育てていただけなのに。

 思考実験と倫理問題の答えを同時に問われるなんて思いもしませんでした。

 僕の答えは、ここではお教えしません。

 皆さんも僕と同じように苦しんでください。

 苦しまない?それならあなたは思考実験の前に倫理問題から始めましょう。

 冗談です。

 ごめんなさい。

 

 

 

 

 前髪の禿げた「幸福」

 何をやっても上手くいかない日が随分と長く続いている。

 そうゆう時に限って、今更考えてもどうにもならない事ばかりを思い返す。

 

 「幸福」が来たら、躊躇わず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記での一文だ。

 この文章に少し解釈と表現を加えてみようと思う。

 

 「幸福」が来たみたいだから前髪を掴んでみたら、血相を変えて怒号を浴びせられた。

 そいつの後ろを見ると、真っ黒なウェディングドレスのレースのように、後ろ髪がどこまでも伸びている。

 僕が掴んだのは「後悔」だった。

 

 誰でも何かしら覚えはあるはずだ。

 大体の人は自分の中での「幸福」の顔すら知らない。

 僕もその一人で、これがまさに「幸福」だと思って前髪を掴んでみては、「後悔」だったという連続。

 同じ轍は踏まないと思ってすれ違う時に限って、そいつの後ろ髪が禿げてたりする。

 何一つ上手くいかない。

 腹いせにそのテカテカの後頭部をペシャリと引っ叩きたくなる。

 それでも掴まないことには始まらないので、嫌々でも引っ張り続けてやろうと決めた。

 僕は今から三回、僕にとっての「幸福」だと思われる奴の前髪を掴もうと思う。

 それはもう、引きちぎる勢いで、思いっきり掴んで引っ張ってやろうと思う。

 それが悉く「後悔」だったら、何回も掴んだ好みとして、前髪を掴んだまんま居酒屋に行って一緒に飲んでやろうと思う。